◎金融検査マニュアルとは何だったのか=中小企業金融を変えた「劇薬」
金融検査マニュアルは、1999年に導入され、2019年に廃止されるまでの20年間、日本の金融界、特に地域金融機関と中小企業の在り方を根底から変えた規制の枠組みだ。バブル経済崩壊後の深刻な不良債権問題を解決するために導入されたこの「劇薬」は 、金融機関の財務健全化に貢献した一方、担保と保証に過度に依存し、「企業の事業性を評価しない」という今日の銀行文化を形成する大きな要因となった。金融検査マニュアルはなぜ生まれたのか、その仕組み、運用実態、そして中小企業金融に与えた影響について詳述する。
- 2025年10月11日
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◎金融検査マニュアルとは何だったのか=中小企業金融を変えた「劇薬」
金融検査マニュアルは、1999年に導入され、2019年に廃止されるまでの20年間、日本の金融界、特に地域金融機関と中小企業の在り方を根底から変えた規制の枠組みだ。バブル経済崩壊後の深刻な不良債権問題を解決するために導入されたこの「劇薬」は 、金融機関の財務健全化に貢献した一方、担保と保証に過度に依存し、「企業の事業性を評価しない」という今日の銀行文化を形成する大きな要因となった。金融検査マニュアルはなぜ生まれたのか、その仕組み、運用実態、そして中小企業金融に与えた影響について詳述する。
▽誕生の背景 ― 不良債権処理という至上命題
金融検査マニュアルが生まれた直接的な原因は、バブル崩壊後の金融危機にある。1990年代、日本の金融機関は巨額の不良債権を抱え、その処理は喫緊の課題であった。米国政府からの強い要請もあった。
政府は金融システムの安定化を図るため、1998年4月から自己資本比率に応じて金融当局の関与を強める「早期是正措置」を導入(方針が決まったのは1996年)することになった。この措置を実効性のあるものにするためには、銀行の自己資本比率を算出する前提となる資産査定、特に貸出債権の評価とそれに基づく貸倒引当のルールを統一する必要があったのだ。
そこで、国は、金融機関の資産査定の透明性を確保し、不良債権を厳格に区分・公表させるための法的根拠として、金融再生法を施行した。この法律に基づき、金融検査官が検査を行う際の具体的な手引書として1999年に策定されたのが、金融検査マニュアルであった 。元々は検査官のためのマニュアルであったが、金融庁による苛烈な検査が繰り返される中で、いつしか金融機関の審査担当者の判断を決める絶対的な基準となったのである。
▽その仕組み ― 「債務者区分」と「債権分類」による二段構成
金融検査マニュアルの最大の特徴は、「債務者区分」と「自己査定による債権分類」という二段階の評価プロセスにあった。
まず、金融機関は融資先の企業を財務内容に応じて「正常先」「要注意先」「破綻懸念先」「実質破綻先」「破綻先」といったカテゴリー(債務者区分)に分類する 。この分類の基準となったのが「債務償還年数」であった。例えば、債務償還年数が10年以内であれば「正常先」、10年を超え20年以内であれば「要注意先」、20年を超えると「破綻懸念先」といった具合に、機械的に区分された 。
しかし、この「10年」「20年」という数字に企業の実際の倒産可能性との間に合理的な根拠は何もなく、あくまで金融機関側の会計上の取り決めに過ぎなかった。現に20年を超えて生きている破綻懸念先の企業はいくらでも存在する。10年ではなく、11年目に返済したからといって、それが何か問題なのだろうか。つまり、あくまでも会計上の取り決めに過ぎないことを理解しておく必要がある。
次に、この債務者区分に基づき、貸出債権を回収可能性に応じて「非(1)分類」「Ⅱ分類」「Ⅲ分類」「Ⅳ分類」に分類(債権分類)させた。そして、この分類に応じて厳格な貸倒引当が求められた。引当の計算は、債務者区分ごとの過去(3年や5年など任意で決める)の倒産確率や貸倒実績率に基づいて行われた。
端的にいえば、この仕組みは、過去の確率に依存するものであった。事実、2000年前後の不況という過去の確率に基づいて、算出された引当額は厳しいものとなり、不良債権処理の推進には効果を発揮した。
しかし、過去の確率に縛られるというのは、構造的欠陥でもある。なぜならば、2013年以降のアベノミクスによる好景気で倒産件数が減少すると、過去の確率に基づく引当システムは機能不全に陥ったからだ。「破綻懸念先であっても過去に倒産がないので引当は不要」という奇妙な理屈さえまかり通るようになった。減価償却が過去の損失を将来に分散させて計上するのに対し、引当とはそもそも未来に生ずる損失を前倒しして計上するものだ。その引当を過去の確率だけで判断するというのは、論理的にもおかしい。現在情報、最新情報をできるだけ反映させるべきだ。
ある大手銀行では、引当額がゼロになることを避けるため、意図的に過去の基準期間をリーマン・ショックによって倒産が増加した2008年を起点とし、毎年延長し続けた。それを監査法人が「恣意的な運用をやめるべきだ」と指摘した。貸倒引当金を計上したい銀行と、税務上、それを阻む監査法人という奇妙な激突が生じたのだ。
この事実は、検査マニュアルが金融危機という異常事態に対応するための緊急的な措置であり、恒久的な制度としてそもそも設計されていなかったことを物語る。平時を想定して考案されたものではなかったのだ。
▽運用の実態 ― 苛烈な検査と金融機関の萎縮
金融検査マニュアルが金融機関に与えた影響は、単なる会計ルールの変更にとどまらなかった。金融庁による苛烈な検査は、金融機関の行動様式を根底から変えた。特に問題となったのは、格付けの低い企業、すなわち「要注意先」や「破綻懸念先」に分類された企業への対応である。
金融機関がこうした企業に融資を行うと、その瞬間に引当が発生し、自らの業績悪化に直結する仕組みとなっていた 。元金融庁幹部は「そうした企業と取引をしてはいけないとは我々は言っていない」と語るが、不良債権処理を厳しく迫られた金融機関にとって、そのような言葉を信じることはできなかった。
結果として、地域金融機関はリスクを取ることを極端に避け、「担保・保証のある企業」や「格付けが正常先の上位である優良企業」としか取引しないという、「日本型金融排除」と呼ぶ事態が生じたのである。つまり、破綻懸念先はもちろん、金融機関によっては要注意先さえ、事実上切り捨てられていたのだ。
この金融機関と企業の「分断」を象徴する事例が、運転資金の供給手法であった「短期継続融資(短コロ)」の事実上の禁止である。短コロは、企業が事業を継続する限り、元本返済を迫られずに運転資金を確保できるため、企業の資金繰りを安定させ、「疑似資本」として機能する中小企業金融においては重要な仕組みであった 。また、数ヶ月ごとの更新時に金融機関が企業の事業実態を把握し、経営相談に乗る貴重な機会でもあった。
しかし、金融庁は2002年に検査マニュアルを改定し、短期継続融資についても「正常運転資金を超える部分を不良債権と見なす」とした。何が「正常」なのかを決めるのは金融庁であるため、もはや金融機関はあらゆるリスクを回避し、運転資金でさえも担保・保証を前提とする長期の証書貸付に切り替える動きを強めた。その結果、全国の地方銀行における短期融資(手形貸付)の残高は2003年3月末の17兆円から2015年3月期には6.5兆円へと激減し、金融機関と企業の関係はさらに希薄化したのである 。
▽もたらした影響 ― 金融排除と事業性評価の欠如
金融検査マニュアルという「劇薬」を20年間も服用し続けた副作用は、日本の地域金融経済、中小企業金融にゆっくりとだが、深刻な影響を及ぼした 。
第一に、金融機関と企業の間に深刻な「分断」をもたらした 。金融機関は融資先の事業内容や将来性に関心を払うのではなく、ただひたすら財務諸表上の格付けと担保・保証の有無のみを気にするようになった。これにより、企業の事業自体を評価するという金融機関本来の機能(目利き能力)は著しく低下した。この分断の歴史が、中小企業の生産性の低さという日本の構造問題の遠因になったのではないだろうか。
第二に、検査マニュアルによって、リスクを極端に回避した金融機関は収益力を強化する機会も失ったのである。いうまでもなくリスクなきところにリターンは望めない。邦銀が米銀行に対して、ROEで見劣りしているのは、常時、一定のリスクに身をさらしている米銀行と、リスクから極端に距離を置いてきた邦銀との差であるのは明らかだ。
こうした弊害に金融庁が気づくのが遅れたのは、日米監督行政において互いの実態を把握していなかったことも背景にある。
2018年春、金融庁とFRB(米連邦準備制度理事会)の幹部同士が行った意見交換の場で、金融庁は日本の引当モデルが「米国とはまったく違う」ということを初めて理解した。日本が金融危機という有事に採用した「極端にリスクから身を置く引当方式」を採用し続けてきたことを認識したのだ。
米国では貸出債権ごとに、将来の返済可能性を定性情報も加味して判断するのに対し、日本では貸出債権の内容ではなく、過去の確率で決まる債務者区分という格付けが低いということだけで事実上取引しない。
米国では債権ごとにリスクを判断しながら貸出債権のポートフォリオ戦略を組み上げることができる。低リスクの貸出債権もあれば、敢えてリスクをとる貸出もある。この全体のバランスの中で収益力を高めていくのだ。生み出した利益は剰余金として資本に蓄積される。健全性を確保する上でも収益力は度外視してはならない。言い換えれば、適度にリスクと接していることが重要なのだ。「交通事故が怖いから一切外出しない者にリターンは望めない」。これが日本が歩んできた道なのである。
金融検査マニュアルは2019年12月に廃止されたが、その「呪縛」は今なお根強く残っている。多くの金融機関は、それに代わる新たな基準がないため、実質的に検査マニュアルに準拠した格付けや引当を続け、それを金融庁が是認してきたのが実情だ。
2026年5月25日から事業性融資推進法に基づき、中小企業の将来キャッシュフローを見極めて融資する「企業価値担保権」の運用が始まる。本サイトでも論点を詳述していく。企業価値担保権の問題意識として、「融資慣行の是正」がある。この融資慣行を形成したのが金融検査マニュアルであったことを理解する必要がある。