◎「地域金融力」はなぜ強化されてこなかったのか ①
金融庁は年内にも地方銀行、信用金庫などが地域企業を支援する取り組みを強化する「地域金融力強化プラン」を策定するという。
- 2025年9月21日
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◎「地域金融力」はなぜ強化されてこなかったのか ①
金融庁は年内にも地方銀行、信用金庫などが地域企業を支援する取り組みを強化する「地域金融力強化プラン」を策定するという。
人口減少、高齢化の進む地域で持続可能な発展を実現するため、中堅・中小企業の再編、事業や人材の呼び込み、付加価値の創出や地域課題の解決、企業の経営改善支援、DX支援、ファンド投資、海外進出を支援する地域経済に貢献する力(地域金融力)を地域金融機関に発揮させるための施策だ。そのために同時並行で、「金融機能強化のための資本参加制度や資金交付制度の期限延長・拡充などを検討」するという。つまりは再編・統合を加速させるという意味である。
いずれも地域や中小企業の課題であり、本プランの成就が望まれる。しかし、同時に目を向けねばならないことは、「ではどうして、これまでの金融行政、地域金融機関は『地域金融力』を強化できなかったのか」という点だ。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という。本コラムでは、「地域金融力」がなぜ強化されてこなかったのかを考察する。
▽「なんのために生まれて、なにをして生きるのか」
まず、金融庁は歴史的に地域金融行政のことなど、長らく意に介してこなかった。
「メガバンク、大手行の監督・指導が最優先で、その他、大多数の地域金融機関は大手行の取り組みにでもならって、数年後にでもキャッチアップすればよい」というのが、大方の金融庁幹部たちの共通認識だった。かつて筆者もそうした幹部たちの生の声を取材で聞いたことがある。
それには出自の理由がある。そもそも金融庁(前身の金融監督庁)の発足が、不良債権処理のために生まれた官庁であったからだ。環境省(前身は環境庁)が水俣病問題の反省から発足した官庁であることと、官僚機構の歴史として通ずる部分がある。
2000年前後の「なんとしても金融システムを守らなければならない」という凄まじい危機感から、不良債権問題を克服するために生まれた官庁であったことが、金融庁のDNAには深く刻まれたのは、ある意味で当然のことだった。
不良債権問題によって信用不安が広がれば、銀行の連鎖倒産が生じ、取り付け騒ぎに発展する。その一歩手前まで来ていた1998年頃は、まさにそうした鬼気迫る心理状態だった。そのころに誕生した金融監督庁の流れをくむ金融庁は「金融システムの安定」こそが至上命題であった。
しかし、危機対応であるはずの「不良債権処理モード」は、いつまで続けるべきなのか。その議論が本格的に行われることはなかった。
金融正常化の象徴である2005年4月の「ペイオフ全面解禁」(預金保険制度で保護される金融機関破綻時の預金が、原則として「元本1千万円までとその利息」に限定される措置)以降でさえ、抜本的には見直されることがなかった。08年のリーマン・ショック、11年の東日本大震災などの「危機」が数年ごとに生じたことも、響いた。
金融庁のリソースは、もっぱら大手行を中心としたリスク管理に割かれてきた。金融庁は「不良債権処理のために生まれ、金融機関に『担保・保証を取って債権を保全し、貸出先の事業リスクから距離を置け』と監督しながら生きてきた」のである。
▽人事が物語る
過去の金融庁の人事が物語っている。
まず、地銀を担当する銀行第二課長を務めた人物が金融庁長官になった事実は、本コラム執筆時点(2025年)で、まだない。
石田晋也監督局長、堀本善雄総合政策局長は銀行第二課長を務めた経験がある。将来、局長ポストの石田氏、堀本氏が仮に長官になれば、銀行第二課長経験者が史上初めて金融庁のトップとなる。これは非常に象徴的なこととなるだろう。
対照的にメガバンク、大手行を担当する銀行第一課長を経験して長官になったのは、遠藤俊英氏、氷見野良三氏、栗田照久氏がいる。これをみても、かつては銀行第一課長が長官候補で、銀行第二課長は長官候補の登竜門とは目されなかったのである。
しかし、今では様変わりした。石田氏、堀本氏らが銀行第二課長を経験しただけでなく、2020年には、新発田龍史氏(現企画市場局審議官)が、それまでの銀行第一課長から銀行第二課長にスライドするという異例の人事異動が行われた。同時期に退官した遠藤俊英長官は、「これからは地域金融が重大な政策マターになる」という認識を抱いており、遠藤氏肝いりの「置き土産」の人事とされた。これは「一課長から二課長への降格」どころか「実質昇格人事」と認識されるようになった。新発田氏は、その後も石田氏が務めていた監督局参事官(地域金融担当)を引き継いでいる。
さらにその後は、新発田氏の大蔵省入省同期で、金融庁秘書課長も務めた岡田大氏(現政策立案統括官)が新発田氏の後任として監督局参事官(地域金融)に就き、地銀再編を推し進める活躍をみせた。地域金融力強化プランの策定責任者が現・政策立案統括官の岡田氏であることも忘れてはいけない。
▽事の始まり
金融庁が地域金融を重要政策に据え始めたのは、2014年からといっていい。
翌15年に長官に就任する森信親監督局長が金融モニタリング基本方針(監督・検査基本方針)で「事業性評価」という概念を打ち出したのが、事の始まりであった。
事業性評価は、担保・保証に過度に依存せず、企業の事業性、将来性を見極めて取引することを地域金融機関に促すという観点で打ち出された。
この背景には、今後、人口減少で地域経済が先行き厳しくなる中、地域金融機関は顧客企業との「共通価値を創造」するビジネスモデルへ転換しなければならないという意図があった。共通価値の創造が「目的」、事業性評価はそれを実現するための「手段」だと理解すれば分かりやすいだろう。
森金融行政は、金融史においても転換点であった。
それまでの大手行を中心としたリスク管理行政という軸から、地域金融機の持続可能性という点に軸足が移ったからだ。ほとんどの地域が人口減少していく中、生産性向上や持続可能性を目指さなければならないという国家的な課題に金融行政も積極的に貢献するという方針転換であった。
考えてみれば、「金融システムの安定」など最低限に確保しなければならない話(ミニマム・スタンダード)で、金融行政はそれだけをやっていればいいという時代ではなくなっていた。水俣病のような公害を起こさないことだけが環境省の仕事ではないのと同じであった。
▽リレーションシップ・バンキングと事業性評価の違い
事業性評価が打ち出された当初、事業性評価はリレーションシップ・バンキングと同義として受け止められた。「似て非なるものだ」という論説は金融庁内にも、外にもなかった。
リレーションシップ・バンキングの概念は、02年の金融再生プログラムに基づき、03年3月に公表された「リレーションシップ・バンキングの機能強化に関するアクションプログラム」で生まれた。顧客密着取引によって得られた情報を最大限に活用し、最適な金融サービスを提供するというものだった。これ自体は、事業性評価と著しく異なるということはない。
しかし、事業性評価とリレーションシップ・バンキングは根本的なところで、「似て非なるもの」と整理すべきだった。この2つの顧客企業に対する金融機関のアプローチ(担保と保証に過度に依存せず、事業内容を見極めて取引する)は酷似しているものの、その目指す目的がまったく異なるからだ。
リレーションシップ・バンキングの目的は、あくまで「不良債権処理」であった。
大本の金融再生プログラムでは、大手行については厳しい金融検査と不良債権の引当処理、公的資金の注入と大規模な金融再編という「ハードランディング路線」が示された。
これに対し、地域金融機関に示されたのが、リレーションシップ・バンキングであった。顧客企業に密着して融資取引することによって不良債権を減らしていこうという、いわば「ソフトランディング路線」だった。リレーションシップ・バンキングによって、中小企業向け貸出債権の不良化を防ぎ、不良債権を正常化することを目指したのだ。苛烈な不良債権処理の引当によって、中小企業の倒産ラッシュを引き起こしてはならないという政治的な思惑も働いたはずだ。
こう考えると「リレーションシップ・バンキングは儲からない」という類いの主張は、そもそも的外れとなる。なぜならば、リレーションシップ・バンキングにはそもそも金融機関の収益性など考慮されておらず、もっぱらに不良債権処理を加速させるための手段でしかないものとして考案されたからだ。不良債権問題を生み出した地域金融機関の責任において取り組まなければならない監督行政であったのだ。
一方の事業性評価は、前述の通り、「共通価値の創造」を目的とした。つまり、地域金融機関にとっても持続可能な収益基盤の構築という共通価値につながらなければならない。顧客利益・生産性向上を大前提としながらも、金融機関自身も持続可能な利益を稼がなくてはならなかったのだ。
以上のように、金融行政において、金融庁の出自故にどうしても地域金融行政が軽視され、十分なリソースが割かれなかったこと、さらには2008年以降、人口減少時代に突入したにもかかわらず、その影響が顕著に出るのが確実な地域の問題に対して、金融行政と地域金融機関が「思考転換」に苦慮し、たとえば事業性評価にしても、非営利のリレーションシップ・バンキングのように「金融庁による指導」と誤解されたことが、地域金融力強化を阻害した一因なのかもしれない。