◎企業価値担保権までの軌跡(企業価値担保権①)
企業が生み出す有形・無形資産の全てを担保(全資産担保)とみなす企業価値担保権が2026年5月25日から導入される。貸出先であるにもかかわらず地域金融機関が企業の事業性を見ようとせず、事業とは切り離された不動産担保・保証に依存してきたことが、これまでの中小企業金融であった。企業価値担保権時代が到来すると、企業の将来キャッシュフロー(すなわち事業性)を見極める力、さらには損益を改善させる企業支援力が金融機関に問われる。中小企業金融は変われるのか。初回は、どうして企業価値担保権が生まれるに至ったのか、すなわち地域金融の融資慣行を論じる。
- 2025年10月19日
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◎企業価値担保権までの軌跡(企業価値担保権①)
企業が生み出す有形・無形資産の全てを担保(全資産担保)とみなす企業価値担保権が2026年5月25日から導入される。貸出先であるにもかかわらず地域金融機関が企業の事業性を見ようとせず、事業とは切り離された不動産担保・保証に依存してきたことが、これまでの中小企業金融であった。不動産担保や保証で貸出債権が保全されているため、金融機関は企業の生産性向上についての当事者意識を失った。それだけではない。いかに良質な貸出債権を築くかという本質から外れ、目先のボリューム拡大に過ぎない低金利貸出提案に走った。超低金利時代という「逆風」はあったにせよ、みずからの融資業務、それに携わる人材を磨き上げることを放棄したのだ。企業価値担保権時代では、企業の将来キャッシュフロー(すなわち事業性)を見極める力、さらには損益を改善させる企業支援力が金融機関に問われる。中小企業金融は変われるのか。初回は、どうして企業価値担保権が生まれるに至ったのか、すなわち地域金融の融資慣行を論じる。
▽「事業リスクから距離を置け」という異常な融資慣行
「十分な不動産担保と保証を取って、貸出先の事業リスクから距離を置け」―。
これが1999年の金融検査マニュアル以降、地域金融機関に染み付いた一般的な中小企業向けの融資慣行である。金融機関に不良債権をつくらせないようにするには、理にかなっているようにも聞こえる。
しかし、物事には裏表、作用があれば必ず副作用がある。その副作用が見えにくく、じわじわと侵食するような効果を長期間にわたって発生させるとなれば事態は深刻だ。
まず、リスクなきところにリターンはないという真理を忘れてはいけない。一切のリスクから距離を置くという極端なリスク回避は、逆に収益力を失うという副作用があるのだ。担保・保証に依存した融資慣行こそが、地域金融機関が企業の事業性を見極める「目利き」を失わせたのである。
それだけではない。地域金融機関は担保・保証で事業リスクを遮断しているのだから、中小企業の採算が悪化しようと、そんなことはお構いなしの「無責任金融」となる。
つまり、中小企業の動向を金融機関が「自分事」として心配し、生産性改善を促す「金融機能」をも退化させたのだ。中小企業にとっては、耳の痛い経営課題を指摘してくるお節介な金融機関が消えた。
中小企業の生産性低迷の原因の一つには、極端なリスク回避を常態化させてきた地域金融機関の融資慣行がある。このことを金融庁、政府は長らく放置してきた。
ペイオフ全面解禁をしておきながら、リーマン・ショック、東日本大震災などの危機が生じるたび「金融システムの安定」を守るためとして、一切の事業リスクを排除するという極端な監督行政を堅持したのだ。
2000年前後の金融危機という日本が震源地の有事においては、一時的にはそうした判断も必要であろう。だが、長期間続けるのは明らかに危険だ。一切のリスクを遮断するのではなく、一定のリスクに常に身をさらしておくことが健全な収益力を鍛える糧にもなるのだ。「交通事故が怖いから家から一歩も出ない」という極端なリスク回避志向の者には、人脈を広げ、経験を積み、ビジネスチャンスを獲得する機会をも失わせる。自然の中で泥だらけになって遊ばない子供には、アレルギーや自己免疫疾患リスクが高まるという研究もあるように。
▽「余計な稟議書」
一つの象徴的なエピソードを紹介しよう。埼玉県のある信用金庫で実際にあった話だ。
ある営業担当者が、「A社は主力商品が損益分岐点売上高を大きく越えており、事業性が見込める」と書き添え、融資稟議を審査担当に上げたところ、審査担当から「余計なことを書くな」と叱責を受けたという。その理由は次の通りだった。
「債務者区分と債権分類という過去情報に照らして、融資できるのかできないのかだけを稟議に書くのが金庫のやり方であり、損益分岐点がどうのこうのという余計なことは書くな。審査の仕事が増えるではないか」という理由だったという。
この営業担当者は中小企業診断士であった。なまじっか商品別の損益分岐点を調べるという「余計な仕事」をしたために叱責されてしまったのである。
一般人が聞けば信じがたい話だが、これが大半の地域金融機関の実態である。将来性、事業性などは見ていない。というか理解ができない。専門用語も学ぼうとせず、業界の基礎知識、稼ぎのメカニズム、ポイントなども知ろうともしなかった。過去情報だけに依拠するという融資慣行を続けてきたのが、現場の実態なのである。
過去と決別し、事業内容を改善させた再生企業、そもそも「過去」が存在しないスタートアップなどは、地域金融機関からすれば「付き合ってはいけない危険企業」であり、どのような事業性、将来性があろうと見捨てられてきた。これが「日本版金融排除」の実相だ。極端にリスクを回避する融資慣行を生み出したのが、1999年に策定され、2019年に廃止されるまで20年間も金融機関の融資行動を縛り続けた金融検査マニュアルなのである。金融検査マニュアルについては、本サイトで詳述しているので、そちらを参考にされたい。
▽偶然という「歴史の必然」
大局の時勢を鑑みれば「歴史の必然」と考えられるが、そのきっかけは、ほんの「偶然」から始まることはしばしばだ。
米国海軍ペリー提督が1853年、黒船で日本に来航した目的は「倒幕や明治維新」ではなく「捕鯨拠点、アジア貿易航路の中継基地の確保」であった。
1917年2月(ロシア暦)、帝都ペテログラード(現サンクトペテルブルク)で始まった女性労働者のストライキは、パンと燃料不足に抗議しただけのものだった。ここに男性労働者が加わり、さらには鎮圧に来たはずの軍が銃口を下ろしたことがロマノフ王朝を打倒する「二月革命」のきっかけとなった。
▽政策オープンラボ
企業価値担保権の場合、金融庁のある実験的な取り組みから始まった。業務の2割を担当以外の取り組みに当てることでイノベーションを促進していた米グーグルの影響を受けた遠藤俊英長官が金融庁でも同様の取り組みを行おうと、2018年に「政策オープンラボ」を実施したのだ。
ここに当時、若手職員だった水谷登美男氏(現・事業性融資推進室長)が手を挙げた。米国の「キャッシュフローレンディング」を日本に実装するプロジェクトを提案したところ、庁内の注目を集めたのだ。
同プロジェクトのメンターを務めたのが現監督局長の石田晋也氏であったことも強力な推進力となった。石田氏は東日本大震災再生支援機構の出向経験、銀行第二課長を務め、地域金融行政の経験が豊富で、その問題点も熟知していたからだ。
米国のキャッシュフローレンディングは、企業の事業性に着眼し、将来キャッシュフローを見極めて融資する手法で、「担保・保証に依存しない事業性評価に基づく融資」を推奨していた金融庁にとって「渡りに船」であった。
ちょうど同じ18年の春にFRBと金融庁との協議で、引当などの融資管理において、日本が米国に比べ、著しくリスク回避であることが判明し、19年12月の金融検査マニュアル廃止の流れが確実なものとなっていく時期でもあった。
▽せめて米国並みに
詰まるところ、「2000年前後の金融危機という未曽有の有事に導入したものの、副作用も生じていた極端なリスク回避の金融検査マニュアルから脱却し、せめて米国並みの中小企業金融にキャッチアップしなければならない」という認識が金融庁で醸成されていくことになった。背景には、人口減少が進む地域経済と中小企業の生産性向上を支えながら、地域金融機関が持続可能な収益力を身に着けていくためには、今までの融資慣行を改めなければならなかったことがある。その起爆剤となるのが、企業価値担保権なのだ。
ただ、さすがの金融庁も若手発案プロジェクトが、まさか法務省、内閣法制局を動かし、「事業性融資推進法」として2024年6月に成立するとまでは想像できなかった。
法務省、内閣法制局においても、無形資産にも企業価値があり、担保権として認めざるをえないという時代背景があった。明治憲法以来の民法における担保概念が動くという歴史的な変化は、政策オープンラボと若手官僚の発案という「偶然」から始まったのである。