◎認知症で資産凍結という「静かなる有事」 =金融ジェロントロジーが鳴らす警鐘

日本の高齢化と共に、家計金融資産も「老いて」いく。

 60歳以上の高齢者が保有する金融資産は全体の6割強。この巨大なマネーが今、人口構造の変化に伴い、かつてないリスクに晒されている。

 長寿化に伴う「長生きリスク(資金枯渇)」については知られているが、それよりも深刻かもしれない「待ったなしの危機」がある。認知症による「資産凍結」だ。

 認知機能の低下により、本人確認ができず、預金が引き出せない。株式が売れない。家族であっても手出しができないー。

 この静かに進む「有事」に対し、金融実務と法制度は立ち遅れている。

 今回は、「老いと金融」を科学する「金融ジェロントロジー(金融老年学)」の視点から、技術と法律の間に横たわる深い溝と、取り残される「中間層」に迫る危機とか何かを考察する。

◎認知症で資産凍結という「静かなる有事」 =金融ジェロントロジーが鳴らす警鐘

 日本の高齢化と共に、家計金融資産も「老いて」いく。

 60歳以上の高齢者が保有する金融資産は全体の6割強。この巨大なマネーが今、人口構造の変化に伴い、かつてないリスクに晒されている。

 長寿化に伴う「長生きリスク(資金枯渇)」については知られているが、それよりも深刻かもしれない「待ったなしの危機」がある。認知症による「資産凍結」だ。

 認知機能の低下により、本人確認ができず、預金が引き出せない。株式が売れない。家族であっても手出しができないー。

 この静かに進む「有事」に対し、金融実務と法制度は立ち遅れている。

 今回は、「老いと金融」を科学する「金融ジェロントロジー(金融老年学)」の視点から、技術と法律の間に横たわる深い溝と、取り残される「中間層」に迫る危機とか何かを考察する。

▽2030年、500万人が「意思能力」を喪失する

 2025年9月、高齢者人口は3619万人(29.4%)に達した。特筆すべきは、日本の認知症有病率が世界平均より高い傾向にある点だ。

 厚生労働省の推計では、2030年には認知症高齢者が523万人(14.2%)に達する。実に7人に1人、予備軍を含めれば5人に1人という水準だ。

 認知症は、加齢による単なる「もの忘れ」とは次元が異なる。朝食のメニューを思い出せないのではなく、「食べた体験そのもの」が欠落する。この不可逆的な進行は、金融取引の根幹である「意思能力」を奪う。

 金融ジェロントロジーに詳しい三菱UFJ信託銀行の石崎浩二エグゼクティブ・アドバイザーは、「認知症は金融機関にとって深刻なオペレーションリスクだ」と断言する。  

 ATMの操作不能、請求書処理の滞留、あるいは反復的な出金行動。これらは窓口の混乱だけでなく、顧客自身の生活基盤の崩壊に直結する。

 石崎氏自身、実親の認知機能低下に気づけず、詐欺被害や書類紛失に直面した経験を持つという。

 対面時間の短い金融機関の窓口で、行員が顧客の認知能力を正確に見抜くことは難しい。ここで期待されるのがテクノロジーの実装だ。

▽AIは「予兆」を掴むが、法律がそれを許さない  

 内閣府の戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)において、石崎氏らが推進するのがAIによる「認知機能低下の検知」だ。  

 特に「音声分析」の進化は目覚ましい。会話の声質、発話パターン、論理性などをAIが解析し、認知症の兆候や遺言能力の有無さえも数値化・客観化しつつある。  

 技術的には、ATMや窓口での「水際対策」は可能なレベルにある。しかし、現場実装の前には、技術よりも遥かに厄介な3つの「法的障壁」が立ちはだかっている。

 まず、医療行為の壁だ。

 銀行員は医師ではない。AIが「認知症の疑いあり」と判定しても、それを本人の同意なく他人に伝えること告げれば診断行為とみなされ、医師法に抵触する恐れがある。

 次に、個人情報保護法の壁(プライバシーの壁)である。本人の同意なしに会話を録音・解析することはプライバシー侵害のリスクがある。また、異変を検知しても、本人の同意なく家族に連絡することは、守秘義務の観点から困難だ。

 最後に消費者契約法の壁(契約の効力)だ。AIが「認知機能低下」と判定した顧客が行った契約を、法的にどう扱うか。無効か、取り消しか。その法的効果が整理されていない。

 金融庁、厚労省、消費者庁。省庁の縦割りが、技術の社会実装を難しくしている。テクノロジーが進化しても法整備が追い付かなければ「宝の持ち腐れ」となってしまう。

▽成年後見制度による「資産凍結」のリスク  

 法的対応の遅れは、既存制度の不備にも表れている。

 認知症発症後の受け皿として想定される「成年後見制度」は、皮肉なことに「資産凍結装置」として機能してしまっている側面が否めない。  

 家庭裁判所が選任する後見人(弁護士や司法書士など)の主務業務は「財産保護」だ。支出は本人の生活費などに厳格に限定される。たとえ資産があっても、「孫へのお小遣い」「ちょっとした自宅のリフォーム」などは原則認められない。  

 資産は守られるが、流動性はない。「生きた金」として自分や家族のために使う道は閉ざされてしまうのだ。

 この硬直性を回避するには、意思能力があるうちに「任意後見」や「家族信託」、あるいは金融機関独自の「代理人届出制度」を活用しておくしかない。だが、その普及は道半ばだ。認知症と診断されると、成年後見制度を使うしか手立てがなくなってしまう。

▽「800万円層」が転落する中間層問題

 さらに深刻なのは、富裕層でも貧困層でもない、「中間層」の高齢者問題だ。

 70代夫婦の金融資産分布を見ると、貯蓄ゼロ層(約2割)は生活保護等のセーフティネットがあり、2000万円以上の富裕層(約3割)には金融機関の専用サービスがある。  

 問題は、中央値800万円程度の「中間層(約5割)」だ。  

 彼らは金融機関の富裕層ビジネスの対象外でありながら、行政の福祉支援の網からも漏れやすい。認知機能が低下し、資産管理ができなくなった瞬間、誰からも顧みられない「空白地帯」に転落するリスクを抱えている。  

 必要なのは、ケアマネジャーなどの福祉専門職と地域金融機関の連携だ。しかし、ここでも「縦割り」が阻害要因となる。

 かつて行政は福祉事業者に対し、トラブル回避のため「金銭管理に関与するな」と指導してきた。一方の金融機関も前述の通り、個人情報保護があり、本人の同意なくして、プライバシーにあたる症状の疑いを第三者へ情報提供できない。この「情報の分断」が、高齢者の資産と生活を脅かすかもしれない。

▽金融機関は「局地戦」を超えられるか  

 静岡県焼津市、京都府京丹後市、東京都世田谷区などの自治体では金融と福祉が連携する動きが出始めている。だが、これらは現場の努力による「局地戦」にとどまっている。広域展開の取り組みには至っていない。  

 石崎氏は、今後の社会像として、若者や留学生と高齢者が共生する「多世代共生ハウス」などのモデルに注目する。そこには「生活と金融」の融合がある。  

 金融ジェロントロジーが示唆するのは、単なる高齢者向けサービスの拡充ではない。  法制度、医療、福祉、そして金融が、互いの領空侵犯を恐れずに連携できるか。「長寿をリスクにしない社会システム」を再構築できるか。  

 銀行が単なる「金庫番」から、老いの伴走者へと脱皮できるのか。その問題意識の醸成と法的整備が今、問われている。

著者について

編集長:橋本卓典

1975年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。2006年共同通信社入社。経済部記者として流通、証券、大手銀行、金融庁を担当。2009年から2年間、広島支局にも勤務。2020年編集委員。2025年8月から経済ジャーナリストとして独立。2016年5月に「捨てられる銀行」(講談社現代新書)を上梓、累計35万部のベストセラーになる。NIKKEI FINANCIALにも寄稿。ラジオNIKKEI「記事にできない金融ウラ話~橋本卓典が語ります」でパーソナリティも務める。

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1975年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。2006年共同通信社入社。経済部記者として流通、証券、大手銀行、金融庁を担当。2009年から2年間、広島支局にも勤務。2020年編集委員。2025年8月から経済ジャーナリストとして独立。2016年5月に「捨てられる銀行」(講談社現代新書)を上梓、累計35万部のベストセラーになる。NIKKEI FINANCIALにも寄稿。ラジオNIKKEI「記事にできない金融ウラ話~橋本卓典が語ります」でパーソナリティも務める。

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