売上ゼロ、負債3億円の資産管理会社を事業会社に=外国人材支援の森興産①
外国人材の支援を手掛ける森興産は、外国人材と日本社会の共生を目指し、国内外の多様な機関との提携・連携を拡大。経済産業省から「地域未来牽引企業」に選定されている。どのような企業にも必然の歴史と偶然のドラマがある。森興産はどのように生まれ、どう変革してきたのか、今回からその軌跡を取り上げる。初回は、オーナー一族のための資産管理会社がどうして外国人材支援の事業会社に変容を遂げたのか、を追う。
- 2025年10月11日
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売上ゼロ、負債3億円の資産管理会社を事業会社に=外国人材支援の森興産①
外国人材の支援を手掛ける森興産は、外国人材と日本社会の共生を目指し、国内外の多様な機関との提携・連携を拡大。経済産業省から「地域未来牽引企業」に選定されている。どのような企業にも必然の歴史と偶然のドラマがある。森興産はどのように生まれ、どう変革してきたのか、今回からその軌跡を取り上げる。初回は、オーナー一族のための資産管理会社がどうして外国人材支援の事業会社に変容を遂げたのか、を追う。
▽そしてバトンは渡された
中小企業のオーナー一族が相続対策として資産管理会社を持つのは珍しくない。スキームによっては、資産管理会社を敢えて赤字にして株式価値を下げ、相続税を低く抑えたいということもあるだろう。森興産も元々は、そうした資産管理会社の一つに過ぎなかった。
森興産は、ステンレス鋼材流通の豫洲短板産業などを傘下にもつYOSHU GROUPに属する。1933年、創業者森義正が四国・豫洲(愛媛県八幡浜市)で機械工具、金物店を開業。業容を拡大し、大阪に進出。64年、豫洲短板産業を設立した。83年に義正の長男、森清市氏が社長に就任。2代目に事業は受け継がれた。松山、東京に営業拠点を設け、ITも先駆的に導入した。こうした中、2代目を担う兄弟の相続のため、87年に設立されたのが森興産であった。
バトンは3代目に渡される。2008年、長男家の森晋吾氏が豫洲短板産業社長に就任。2013年に二男家の純一郎氏が副社長に就任した。純一郎氏の弟が隼人氏だ。つまり、「二男家の二男」というわけだ。
物心がつく頃には、隼人氏は、自分とは異なり、祖業を補佐することを宿命づけられて生まれ、育てられる兄純一郎氏を嫉妬する時期もあったという。
しかし、兄は兄で葛藤を抱えていた。隼人氏のように自由に生きることができなかったからだ。代を重ねるたびにこうした思いを交錯させていくのがオーナー一族というファミリービジネスの難しさだ。兄弟は留学先のオーストラリアでたまたま合流し、涙を流して長年秘めてきたお互いの思いを打ち明け、そして和解を遂げた。隼人氏は、法務面の顧問として裏方から社の問題解決に徹する決意をしていた。
▽グローバル人材の育成
そうした隼人氏に任されたのは森興産であった。2010年に入社し、同年社長に就いた。父は03年に他界しており、社長を務めていた叔父から引き継いだ格好だった。こうして晋吾氏、兄純一郎氏に続き、隼人氏もグループの一翼を担うことになった。
彼ら3世代目に託された経営テーマは「グローバル化を促進するための人材育成」であった。2013年に創業80周年を迎えるということも踏まえ、「グルーバル化」が今後、グループで打ち出していく方向性とされた。海外経験も重ねていた隼人氏は、森興産でグローバル人材の事業化を目指すことになった。しかし、本当の難局はここから始まる。
▽マイナスからのスタート
「驚いたのは、資産管理会社ということで長年、金融機関から言われるまま借金し続けた結果、売上がゼロなのに負債が3億円もあるというマイナスからのスタートでした」と隼人氏。
長年、オーナー家の資産管理会社であった森興産は、グループ中核の豫洲短板産業の株式を保有していた。このため金融機関からすれば、森興産への融資が貸し倒れるリスクは低く、借入金の利息だけ返済していればよいとされてきたのだ。
しかし、これでは森興産の独立採算の事業化など到底不可能だ。隼人氏は、森興産の事業をつくり出すために動かなければならなかった。まずは、グループ各社が保有する不動産を集約した。これで管理手数料が入り、売上ゼロから脱却できるめどが立った。
また、以前からグループでは「グループの人材育成を外部事業者にアウトソーシングするのではなく、内製化して合同でやったらいいのではないか」というニーズがあった。そこで、森興産が社内人材育成を担うことになった。「社内課題解決会社」が森興産の事業化の第一歩であった。
とはいえ、対象者はグループ社員数100人規模の研修・イベントである。グループ内向けとはいえ、タイムスケジュール管理、教育プログラム、イベント運営、シナリオづくり、音響などのノウハウが求められた。森興産は文字通り「走りながら覚える」ことになる。しかし、人も組織も経験を糧にできるのであれば、それは決して無駄ではない。この経験を森興産は活かした。
▽中小企業は「人」から始まる
中小企業は「人」から始まる。どのような事業構想を描いても、それを担う人がいなければ、絵に描いた餅である。
森興産の場合、「社員第一号」は2010年10月、隼人氏が社長に就いた時に採用した秘書のEさんだった。Eさんは地方銀行職員としての経歴を持つため、資産管理機能を隼人氏と担うこととなる。その後、IT企業大手に勤めていた従兄弟が入社し、グループ支援業務は徐々に拡大していった。
2013年には、デザイナー担当のMさん、会計担当のAさんが入社。翌年には、インターンであった中国人のRさんが森興産初の外国籍正社員として入社した。「Mさん」「Aさん」「Rさん」はそれぞれファーストネームであるが、森興産は入社時から互いを下の名前で呼ぶ習慣があることも特徴だ。いずれも隼人氏からすると1世代下の女性正社員たち。現在も女性社員が大半を占める森興産だが女性活躍促進の礎はこの時に築かれた。
それぞれがそれぞれの強みを活かす活動に従事することとなる。例えば、Mさんの参画で、デザイン力が強化されたことによって、企画提案力が格段に磨かれた。これで社のアイデアを具現化することができるようになった。資料、ポスター、Webの内製化への道が拓けたのだ。
外国人雇用はその後も拡大する。2014年にはタイ人女性、翌15年には韓国人女性(デザイナー)も加わった。これによって、日本人向けに実施してきた研修プログラム・セミナーを多言語展開し、「外国人向け」に転用できる見通しがたった。
2016年には、アルゼンチン人の男性プログラマーも入社した。システム面の強化のための採用であったが、これでスペイン語もカバーできるようになった。
「みなさんは、それぞれの国の代表です」という森隼人社長の呼びかけに、外国人社員は自分たちの業務範囲を超えて母国語での発信に協力を惜しまなかった。
この流れが、情報共有サイト「WA.SA.Bi.(わさび)」プラットフォームの創設につながる。次回のコラムで紹介する。